羽田空港は、東京そして日本の空の玄関口として、国内外を結ぶ重要な役割を担っています。現在では世界有数の利用客数を誇る巨大空港ですが、その歴史は100年以上前に遡り、小さな飛行学校から始まりました。本稿では、羽田空港が今日の姿になるまでの道のりを、年表形式で詳細に解説していきます 。
最後まで読んでくれたらうれしいです(^^♪
黎明期
1917年(大正6年):日本飛行学校の創設

羽田の地で航空に関する最初の動きは、1917年(大正6年)のことです。羽田町の干潟に日本飛行学校が開設されました。この飛行学校の設立は、将来の空港建設に向けた最初の礎石となりました。当時、広大な干潟は、航空機の発着に適した平坦な土地として認識されていたと考えられます。この出来事は、羽田という地域と航空との深い繋がりを示す始まりと言えるでしょう。

日本航空学校が始まりなんですね(^^♪
1931年以前:穴守稲荷神社と羽田運動場の繋がり
空港建設以前の羽田周辺には、地域住民の生活と文化が根付いていました。特に、穴守稲荷神社は古くからこの地に鎮座し、地域の人々の信仰を集めていました。現在の羽田空港の敷地の一部は、かつてこの神社の境内だったと伝えられています。また、1909年には羽田運動場が開設され、野球場やテニスコートなどが整備され、地域住民のレクリエーションの場となっていました。これらの事実は、空港建設によって地域の景観や利用目的が大きく変化したことを示唆しています。

1931年(昭和6年)8月25日:東京飛行場の開港
日本の航空史における重要な一歩として、1931年(昭和6年)8月25日に「東京飛行場」が開港しました。これは、日本初の国営民間航空専用空港であり、当時の日本の航空行政における大きな進展でした。開港当初の飛行場は、面積53ヘクタール、滑走路は長さ300メートル、幅15メートルの1本のみという小規模なものでした。管制塔もまだ存在せず、コンクリート舗装された滑走路以外には何もなかったと言われています。この簡素な滑走路が、後の巨大空港へと発展していく原点となりました。
300m滑走路から始まったんですね

戦前
1938-1939年(昭和13-14年):初の拡張と滑走路の整備
開港から数年後、東京飛行場は最初の拡張工事を迎えました。1938年から1939年にかけて、2本の滑走路が新たに整備され、それぞれの長さは800メートル、幅は80メートルとなりました。この拡張は、航空需要の増加と、より大型の航空機の就航を見据えたものであったと考えられます。また、この時期には、多摩川を渡る大師橋が完成し、それまで利用されていた羽田の渡しと大師の渡しという渡船が廃止されました。これは、空港周辺の交通インフラが整備され、空港へのアクセスが向上したことを示しています。
1939年(昭和14年):ニッポン号の世界一周飛行
1939年(昭和14年)には、毎日新聞社の航空機「ニッポン号」が羽田を起点として世界一周飛行に成功しました。この壮挙は、当時の日本の航空技術の進歩を示すものであり、東京飛行場の名声を高める出来事となりました。出発地として羽田が選ばれたことは、当時すでにこの飛行場が日本の主要な航空拠点として認識されていたことを示唆しています。

第二次世界大戦と連合国軍の占領
第二次世界大戦中:軍事利用
第二次世界大戦中、東京飛行場は一部の軍事部隊によって利用されました。しかし、主要な軍事拠点という位置づけではなかったようです。終戦を迎えると、その役割は大きく変化することになります。
1945年(昭和20年):連合国軍による接収と羽田エアベースへの改称

1945年(昭和20年)、第二次世界大戦終結後、東京飛行場は連合国軍によって接収され、「羽田エアベース」と改称されました。この際、海老取川以東に住んでいた住民は48時間以内の強制退去を命じられました。連合国軍は、この飛行場を極東における重要な拠点として位置づけ、滑走路の拡張など大規模な整備を行いました。この占領期間は、日本の航空史において異質な時代であり、空港の運営や利用が大きく制限されることとなりました。しかし、この時期のインフラ整備が、後の民間航空再開の基盤となった側面も否定できません。
戦後の再出発と東京国際空港への改称
1952年(昭和27年)7月1日:日本への返還と改称

1952年(昭和27年)7月1日、連合国軍から大部分の施設が日本政府に返還され、同日に「東京国際空港」と改称されました。初代空港長には、戦前に「ニッポン号」で世界一周を達成した中島純利が任命されました。しかし、返還当初は旅客ターミナルなどの施設はまだ十分には整っていませんでした。この再出発は、日本の航空行政が再び自主的に行われるようになったことを意味し、国際社会への復帰の象徴でもありました。
1953年(昭和28年):日本空港ビルデング株式会社の設立
戦後の経済状況が厳しい中、政府は民間資本によるターミナル建設を決定しました。これを受け、1953年(昭和28年)に財界主要企業の協力により、日本空港ビルデング株式会社が設立され、旅客ターミナルの建設と運営を担うことになりました。この民間主導のターミナル建設は、戦後の日本の経済復興における民間活力の重要性を示す事例と言えるでしょう。
1955年(昭和30年)5月:初の旅客ターミナルの開港

1955年(昭和30年)5月、民間資本によって建設された羽田空港初の旅客ターミナルが開港し、供用を開始しました。このターミナルは、当時としては東洋一の規模を誇り、たちまち東京でも有数の人気スポットとなりました。屋上には展望台が設けられ、多くの人々が飛行機を見に訪れたと言われています。これは、航空旅行が一般の人々にとっても身近なものになりつつあったことを示しています。

1959年(昭和34年):A滑走路の延長
ジェット機時代の到来に対応するため、1959年(昭和34年)にはA滑走路が2,550メートルに延長されました。ジェット機はレシプロ機に比べて離着陸に必要な滑走路の距離が長いため、この滑走路の延長は、より大型で高性能な航空機の就航を可能にするための重要な措置でした。

成長と拡大
1964年(昭和39年):東京オリンピックに向けた整備

1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催に向けて、羽田空港では大規模な整備が行われました。国際線の利用増加に対応するため、国際線ターミナルが拡張され、その規模は2倍以上に拡大しました。また、浜松町と羽田空港を結ぶ東京モノレールが開業し、首都高速道路1号線(羽田線)も開通し、空港へのアクセスが大幅に向上しました。さらに、この年にはC滑走路も完成しています。これらのインフラ整備は、国際的なスポーツイベントを迎える日本の顔としての羽田空港の重要性を高めるものでした。
1970年(昭和45年):ジャンボ機の就航

1970年(昭和45年)には、ボーイング747などのいわゆるジャンボ機が羽田空港に就航を開始しました。これにより、一度に多くの乗客を輸送することが可能になり、航空輸送の効率が飛躍的に向上しました。また、この年には新しい国際線到着ターミナルも供用を開始しています。
1978年(昭和53年):成田空港の開港と国際線の移転
1978年(昭和53年)5月、新東京国際空港(現在の成田国際空港)が開港し、羽田空港の国際線は、一部の航空会社(中華航空を除く)を除き、成田空港へと移転しました。これにより、羽田空港は主に国内線を中心とした空港としての役割を担うことになりました。これは、首都圏の航空需要に対応するための戦略的な再配置であり、羽田空港にとっては大きな転換期となりました。

国際拠点としての再浮上
20世紀後半:国内線中心とインフラ整備
成田空港開港後、羽田空港は国内線の主要空港としての役割を強化しました。1988年(昭和63年)には新A滑走路が供用を開始し、1993年(平成5年)にはビッグバード(現在の第1旅客ターミナル)が完成しました。1997年(平成9年)には新C滑走路が供用を開始し、24時間運用も開始されました。2000年(平成12年)には新B滑走路が供用を開始し、2004年(平成16年)には第2旅客ターミナルビルが完成しました。これらの継続的なインフラ整備は、国内航空需要の増加に対応するためのものでした。

1990年代後半~2000年代初頭:国際線の段階的な再開
20世紀末から21世紀初頭にかけて、羽田空港では国際線の運航が徐々に再開されました。2001年(平成13年)には深夜時間帯に国際チャーター便の運航が開始され、2003年(平成15年)には羽田とソウル(金浦)を結ぶ国際旅客チャーター便の運航が開始されました。これは、都心に近い羽田空港への国際線就航を求める声の高まりに応えるものでした。

21世紀:本格的な国際拠点へ
2010年(平成22年)10月:D滑走路と国際線ターミナルの供用開始
羽田空港の歴史における大きな転換点となったのは、2010年(平成22年)10月です。この日、4本目の滑走路となるD滑走路と、新たな国際線旅客ターミナルが供用を開始しました。同年10月31日には、国際定期便の就航も開始され、羽田空港は本格的な国際拠点としての役割を再び担うことになりました。これにより、首都圏の国際航空ネットワークは大きく拡充されました。

最近の動向
近年では、2020年に第2旅客ターミナルの国際線施設が供用を開始するなど、更なる機能強化が進められています。また、羽田空港は、スカイトラックス社の「Global Airport Ranking」で日本の空港として初めて5つ星を獲得するなど、国際的な評価も高く、2019年には「ザ・ワールズ・ベスト・エアポーツ・オブ・2019」で世界第2位に選出されています。これらの事実は、羽田空港が世界を代表する空港の一つとして、その地位を確立していることを示しています。
羽田空港の歴史年表
年 | 出来事 |
1917年 | 日本飛行学校が羽田町干潟に創設 |
1931年 | 東京飛行場として開港 |
1938-39年 | 初の拡張工事、2本の滑走路を整備 |
1939年 | 毎日新聞社「ニッポン」号が世界一周飛行に出発 |
1945年 | 連合国軍が接収、「羽田エアベース」となる |
1952年 | 連合国軍から大部分が返還、「東京国際空港」に改称 |
1953年 | 日本空港ビルデング株式会社設立 |
1955年 | 初の旅客ターミナルが開港 |
1959年 | A滑走路を2,550メートルに延長 |
1964年 | 東京オリンピックに向け国際線ターミナル拡張、東京モノレール・首都高速羽田線開通、C滑走路完成 |
1970年 | ジャンボ機が就航、新国際線到着ターミナル供用開始 |
1978年 | 成田空港が開港、国際線の大部分が移転 |
1988年 | 新A滑走路供用開始 |
1993年 | 第1旅客ターミナル(ビッグバード)完成 |
1997年 | 新C滑走路供用開始、24時間運用開始 |
1998年 | 京浜急行線が空港へ乗り入れ |
2000年 | 新B滑走路供用開始 |
2001年 | 国際チャーター便(深夜)運航開始 |
2004年 | 第2旅客ターミナルビル完成 |
2010年 | D滑走路・国際線地区供用開始、国際定期便就航開始 |
2020年 | 第2旅客ターミナル国際線施設供用開始 |